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5月末の山陰・山陽の旅の初日、
島根県立美術館から見る夕陽を見ました。
菊竹清訓氏がデザインした海と一体化する美術館の庭から眺める日本海の夕陽は、
「夕陽百選」にも選ばれている夕陽の名所で、
東日本の特に朝日で有名な勝浦なんぞにアトリエを構える僕にとって、
それは是非とも見たかった夕陽でした。

これが島根県立美術館とそこから見る夕陽。

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ちょっと雲がかかっていて、山の端に沈む夕陽とまではいかなかったけど、
それはそれは美しい夕陽でした。

2日目は、クルマを飛ばして鳥取砂丘まで足を伸ばしました。
日本の砂漠なんてしょせん・・・なんて思っていたご同輩へ。
日本という島国にこんな自然の造形物があるなんて、信じられません。
確かに規模は小さいですが、その漠たる世界に感動します。

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そして3日目は、中国山地を縦断して錦帯橋や広島、厳島神社へと向かいました。
島自体がご神体という厳島神社へは、船でわたりますが、
海に浮かぶ鳥居は、これまで飽きるほど写真で見てきたけれど、感動です。
夕陽が逆光だったけど、逆にそれが荘厳さを演出してくれました。

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自然のなす技、信仰のなす技。
日本の太陽神として、目に見えるものをつかさどるアマテラスオオミカミや、
その弟(スサノオノミコト)の子で、
運命や縁などの目に見えないものをつかさどるオオクニヌシノミコトなど、
様々な神様が統治した国です。
日本人の原点に触れている感覚とでもいうのか、
それは感動なんて通り越して、跪きたくなってしまうような、
圧倒的な体験でした。


さてしかし。

僕がこころの赴くままに撮ったつもりの写真には、こんな写真が・・・。

これは島根県立美術館から沈む夕陽を眺める地元の女子高たち。
まるであこがれのミュージシャンのライブを見ているかのように、
日が沈むまでの1時間を楽しんでいました。

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これは鳥取砂丘を走る女の子たち。
一緒の男子をさしおいて、キャーキャー歓声を上げて砂丘を駆け上がる姿は、
ディズニーランドを楽しんでいるかのようなはしゃぎっぷり。

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これは厳島神社に修学旅行に来た女子高校生だと思うのだけれど、
ご神体に上陸し、ご神体だから何よ?とばかり闊歩する姿は、見事です。
見ていて気持ちいい!

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そう、「あっぱれ」なのです。

「あっぱれ」という言葉は、「あわれ」から来ています。
公家の感傷から生まれた「あわれ」は、武家の潔さと出会い「あっぱれ」になった。

神と仏、和事と荒事、ケとハレ、荒びと遊び。
対極であるようだからこそ切り離せず、
切り離すことができないから対極として存在する。
「虚ろい」は「移ろい」して「現ろい」になる。
夢か現実か、その狭間に見続け、そこから熟成したのが日本文化です。

なんだろうな、畏怖の念、敬虔なこころ、神聖な気持ち。
そういう思いに浸りたくて、夕陽や砂丘や厳島を目指したけど、
そんな思いに乱れ髪のごとく現れる若き女性人たち。

目に見えない力があるからパワースポットのように思われるけど、
そこに目に見える生があるからパワースポットなのかもしれない。

アマテラスオオミカミは女性だけど、
女性はみなアマテラスオオミカミなのかもしれない。

西田幾太郎の「絶対矛盾的自己同一」を感じざるを得ない旅でした。




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