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チャレンジできる自由

僕のもう一つのワークルームとなっている
銀座のオフィスの、
プロジェクトの全体管理をしてくれていたMKちゃんが、
今週一杯で辞めるといって、挨拶しにきてくれた。
突然の話で驚いて、次はどうする予定?と聞いたら、
実は彼女はベースが大好きで、
ミュージシャンのアシストとかライブをやりながら、
ベースの腕を磨きに単身NYに行く、という。
いつもニコニコ、小柄で元気で、キュートな彼女が、
NYの舞台でベースを弾いている様子を想像できず
どんな音楽?とか、俺も昔バンドやっててさあ・・・
みたいな全く気の利いた返事ができなかったけど、
そのキラキラ光るまなざしは、希望と勇気に満ち溢れていて、
それに圧倒されて何もいえなかった、というのが本当。
すごいぞ!どんどん世界へ羽ばたいて、チャレンジして、
自分の可能性を広げていって欲しい。
なんだかこっちが勇気をもらったようで、うれしかった。
MKちゃん、気をつけて。元気で。

そんな彼女のまなざしに、
ふとまったく別のまなざしが重なった。

サジダ・リシャウィ死刑囚のそれだ。
全身に爆発物をまとい、チェックされているその目は、
悲しみみたいな感情を通り越し、
自分というものを既に持たない絶望の生き物の目みたいで、
たとえ彼女を抱きしめてあげたとしても、
絶対に心は開かれないような、
生への南京錠がかかっているように見えた。

イスラム国のテロの根っこに、
抜け出そうにも抜け出せない貧困と差別があり、
その不自由から脱出の手段がこうした過激な行動に結びつくのだとしたら、
「私はシャルリー」と言論の自由を訴えても、
そんな話は彼女たちには全く通らない。
それは言論の不自由が問われた世界でこそ成り立つ話で、
それ以上に生きる不自由が問われているからだ。
むしろそれは、相手を刺激ことになるのではないか。
彼女はアメリカの攻撃で兄弟を失った。
愛するものを奪われ、その先に希望を描けない自分。
自由とか平等とかを盾にした社会の中で、
笑顔も言論も全部敵。
まったく価値のない存在としての意識が、
爆弾で自分を滅ぼしながら、
あの憎き自由と平等へ対抗する、
一石二鳥の手段に映ったのかもしれない。
死には死を。
その非人道さは決して許されず、
あのナイフをちらつかせる兵士を捕まえたら、
同じ恐怖の目にあわせてやろうとする右脳があるけど、
それじゃ何も解決しないことも、左脳でわかる。

活きる可能性を奪回するためのジハードなら、
いま世界は自由の本質を問われているのだ。

チャレンジできるのは、自由があるからだ。
自由の海で泳ぐ姿を見ていると、僕まで希望が湧いてくる。
不自由の檻に囲われた姿は、こちらまで絶望の波が押し寄せる。

MKさん、クレオールなNYで、
自由と不自由を呼吸し、
そこから生まれたベースの音が世界に少しでも響いていくことを期待しています。
とはいえ、気をつけて!


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